線香花火
昨夜のとおり雨で今朝のイタリアンローストコーヒーは秋の味でした
秋暑な一日がうれしい土庫澄子です
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色褪せた卒論のファイルを眺めていると三木清の人生論ノートに手が伸びます。
二つ目のエッセイ「幸福について」を読みました。
三木哲学のエッセンスがぎゅっと詰まって、幕の内弁当のように三木清の風味にあふれています。
「幸福論を抹殺した倫理は、一見いかに論理的であるにしても、その内実において虚無主義にほかならぬ。」
「哲学における芸術家的なものが失われてしまい、心理批評の仕事はただ文学者にのみ委ねられるようになった。そこに心理学をもたないことが一般的になった今日の哲学の抽象性がある。」
「生が想像的なものであるという意味において幸福も想像的なものであるということができる。」
「なぜなら、人格は肉体であると共に精神であり、活動であると共に存在であるから。そしてかかることは人格というものが形成されるものであることを意味している。」
独特の温かみをもった人格論から、ほかの哲学的な著作にはなかなかみられない牧歌的なラストへ。三木の筆が柔かく詩的に羽ばたいていく。詩人と鳥の話。
「歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないだろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如く、おのずから現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。」
わが家の庭にも鳥はやって来て、さえずっています。ようやく腑に落ちる、わかる実感にたどりつきました。
幸福論のラストには、思索の重さから解放された空気感、ふっと席を立って珈琲をいれ直したような感じがあります。わたしのような読み手も理屈を忘れ、ほっとひと安心するのです。
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今夜は庭先で線香花火をしました。夕暮れの公園で花火をしているのをみかけて夏の思い出がほしくなったのでした。
花火は点火して、花火となって光を散らし、宵闇に消えてはじめて存在をまっとうする。でなければ火薬のちいさな包みのままだもの。
線香花火に幸福があるものかと三木清は笑うかな?