晩夏ー三木清とペトラルカ

さすがに猛暑も終わりそうな朝でした

今朝もイタリアンローストコーヒーで一日がはじまった土庫澄子です

 

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三木清をテーマにした卒論と再会し、ほかの資料よりも重厚難解ですけれどどこか温かみを感じる三木清の文章に触れたくなります。

 

人生論ノート冒頭のエッセイ「死について」

このエッセイは、卒論を書くときに何度読んだかしれません。

 

何度読んでもわからないのに読むたびに三木清の暗示めいた書き方を味わえます。

パラパラと読み直していてはっとしました。

 

「すでにペトラルカの如きルネサンスヒューマニストは原罪を原罪としてでなくむしろ病気として体験した。ニーチェはもちろん、ジイドの如き今日のヒューマニストにおいて見出されるのも、同様の意味における病気の体験である。」

 

ペトラルカは14世紀イタリアのひと。病気とは14世紀に大流行したペストであれば、三木清はエッセイのラストに向かうところで唐突に(?)ペトラルカが原罪をペストとして体験したという話をしているのですね。

 

そして、三木清独特の思索から暗示的なラストへ。東洋思想と死の話。

 

「ともかく病気の観念から伝統主義を導き出すことは不可能である。それでは罪の観念の存しないといわれる東洋思想において、伝統主義というものは、そしてまたヒューマニズムというものは、如何なるものであろうか。問題は死の見方に関わっている。」

 

卒論をまとめた頃、このラストを追体験し、理解するには自分は若すぎるとおもっていました。東洋思想の話にいたってはイメージしかつかめずまるで理解できませんでした。

 

いま読んでも難解は難解です。けれど新型コロナ感染症パンデミックという新しい経験のなかでラストの響きがいままでとは違ってくるのはたしかなようです。

 

夕焼けを待つようにツクツクボウシが鳴いています

晩夏の静かな時間を愛しみ、すごしていきたいと思っています

 

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