昨日は雨、雨

部屋で雨宿り

 

借りてきた

フランス映画を

 

一本見ました

動きも言葉も

 

不思議と静かな映画

監督は日本で暮らした

 

経験がある方だそう

ああ、なるほど

 

 

午後、三木清「人生論ノート」の

「感傷について」を読みました

 

「瞑想は多くの場合感傷から出てくる、少なくとも感傷を伴い、或いは感傷に変ってゆく。思索する者は感傷の誘惑に負けてはならぬ。」

 

「感傷は制作的でなくて鑑賞的である。」

 

「旅において人が感傷的になり易いのは、むしろ彼がその日常の活動から脱け出すためであり、無為になるためである。感傷は私のウイーク・エンドである。」

 

「あらゆる物が流転するのを見て感傷的になるのは、物を捉えてその中に入ることのできぬ自己を感じるためである。自己もまた流転の中にあるのを知るとき、私は単なる感傷に止まり得るであろうか。」

 

禅的な瞑想を

思わせたり

 

ギリシャ的な万物流転を

思わせたりしながら

 

三木は思索とは何か

という一点を

 

見つめている

思索は物の中に入ってゆく

 

そして思索は

制作的なもの

 

それが三木清

定点なのだろう