論理学と顰蹙について(?)
哲学生でしたころ、古典論理学の講義を聴きました。
教師は、若き日に、古典論理学を志し、留学先のイタリアで魅力的な方と出会い、論理学への道はほどほどになさったという奇特な方でした。
大丈夫かしらと思いつつ、とにかく古典論理を学びたい一心で、拝聴。
初心に返って授業しますという、初回壇上の言い訳に励まされ、半分くらい皆勤しました。
古典的三段論法の伝統と奥行きだけは、わずかに感じました。
なにかと照れ笑いされながら、基本だけは、すっと風が吹くように真顔でいらした先生。
おかげさまで、いま、論理の基本をずっと考えながら判決を読んでおります。
(古代から西洋中世にかけて発展した古典論理学なんぞ御存じないというしかめつらの諸兄姉には、これでもかと、徹底的に顰蹙を頂くのです。まあ、生きるか死ぬかまで大変なこととなるのですが、こういう顰蹙は、そのうち道なりにお宝となることもございまして、云々かんぬん・・!?)
先生、御元気でおられますか?
若輩たちに、おしげもなく教えてくださって尊敬しております。
魅惑的な奥様と頼もしいお子様方と、本日もどうぞお幸せに!!